聖書が語る神は、万物の創造主なる神です。
-1024x576.jpg)
聖書の一番初め、創世記1章1節にはこう書いてあります。
はじめに神が天と地を創造された。(創世記1:1)
つまり、聖書の神は、天と地とその中に存在するすべてを造られた創造主です。全てということは、人間も神によって造られたと言うことです。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。(ヨハネ1:3)
ただ、あなただけが主です。あなたは天と、天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものを造り、そのすべてを生かしておられます。(ネヘミヤ9:6)
私たちはみな、ただひとりの父を持っているではないか。ただひとりの神が、私たちを創造したではないか。(マラキ2:10)
聖書が語る神は、唯一で、「主」なる神です。

唯一神を信じているのは主にユダヤ教、キリスト教、イスラム教ですが、それ以外にも世界には様々な多神教の宗教があり、日本の神道もギリシャ神話のような八百万の神々がいるので、神が「唯一」と言うと、では、どれが本物の神なのかと思います。先に見たように、聖書の神は人間が作り出した様々な神々ではなく、人間を造られた唯一の本物の神です。
聖書が語る神は、唯一で、「主」なる神です。日本語の聖書で「主」と訳されている単語は、聖書が書かれた原語のヘブライ語では4文字で”YHWH”、つまり子音だけで発音できません。人間が口にするのも恐れ多いお方、唯一、神として恐れ、敬い、礼拝するにふさわしいお方、それが「主」なる神です。主人としもべのような関係で、人間が自分の「主」として従っていくべきお方、だから「主」なる神なのです。
きょう、あなたは、上は天、下は地において、主だけが神であり、ほかに神はないことを知り、心を留めなさい。(申命記4:39)
主は私たちの神、主はただひとりである。(申命記6:4)
すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。(エペソ4:6)
聖書が語る神は、全人類の救い主なる神です。
聖書は、全ての人が神から迷い出てしまったと言っています。すべての人間は、生まれつき神に背き、神を無視し、自分勝手に生きる性質を持っています。つまり、自分の人生の「主」は神ではなく自分自身であり、自分を中心にし、自分勝手に自分の目に良いと思うことを行なって生きていると言っています。それが、聖書が語る、神に対する人間の「罪」です。
人間はこの世の人生を終えた時、肉体は朽ち果てます。でも、魂は生き続けます。本物の神を神とせず、神を無視し、神に背いて生きた人間の「罪」の結果は、神の怒りと裁きによって永遠に神から引き離されてしまう神との絶離、永遠の地獄です。聖書は、人間はどんなに自力で頑張っても、罪の結果である永遠の地獄から救われることはできず、人間を救うことができるのは、唯一、救い主なる神ご自身であると言っています。

わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。(イザヤ43:11)
この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。(使徒4:12)
聖書が語る神は、人となって来て下さった御子なる神、イエス・キリストです。
聖書は、人間を造られた神が、神に背き、神から離れていった人間を、永遠に滅びてしまうことから救い出すために、人間になって来てくださったと言っているのです。それが、万物の創造主なる神であり、唯一の主なる神であり、救い主なる神であるイエス・キリストです。
「イエス」とは、「神は救い」という名前です。「キリスト」とは、ヘブライ語でメシア、日本語では「救世主」とよく訳されますが、本当の意味は、「油注がれた王」で、名前ではなく、タイトルです。つまり、やがてくる永遠の世で、人間の王として統治されるお方です。

ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、・・・その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。(イザヤ9:6、7)
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(ヨハネ1:18)
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:16、17)
私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。(第一コリント8:6)
神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。(第一テモテ2:5)
聖書が語る神は、完全な裁き主であり、最終的に罪を裁く神です。

この世界で罪を犯せば、この世界の法律に従って裁かれます。残念ながら、罪を犯した結果、その罪に相当する正しい完全な裁きが行われている時もあれば、そうでない時もあります。人間は神ではなく、完全ではなく、全てを知り尽くすことができないからです。
でも、この世で裁かれるような罪を犯した人も犯していない人も、全ての人は皆、100%の確率で死にます。聖書には、「人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)と書かれています。神は人間ではなく、全てを知ることができるので、神の裁きは完全、完璧です。たとえ地上で罪相当の裁きを免れた人も、神の前では免れることはできません。また逆に、地上で罪を犯したことがないと思っていた人も、人間が神に犯した「罪」は、神の律法によって神の基準で裁かれます。聖書は、「すべての人は罪を犯したので、神の栄誉を受けることができない」(ローマ3:23)と言っています。つまり、完全なる神の律法によって神の完璧な基準で裁かれたなら、全ての人は罪人です。神は心の中の動機まで見て裁かれるからです。
地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。(ダニエル12:2)
愚か者は心の中で、「神はいない」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行っている。善を行う者はいない。主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行う者はいない。ひとりもいない。(詩篇14:1〜3)
不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されている。(ローマ1:18)
神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠されたことをさばかれる日に、行われるのです。(ローマ2:16)
律法の行いによって義と認められる者は、一人もいないからです。・・・というのは、律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」(ガラテヤ2:16、3:10)
聖書が語る神は、愛なる神で、誰一人として永遠に滅びることを望んでおられません。
神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。(第一テモテ2:4)
(主は)ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(第二ペテロ3:9)
愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(第一ヨハネ4:8〜10)

聖書を読み、もっと聖書の神について学び、知ってください。そして、聖書の語る唯一の本物の神を神とせず、自分勝手な価値観で神に逆らって生きて来た罪を悔い改め、神が提供してくださった救いを受け入れ、神との個人的な愛の関係を持って生きていきますように!