永遠のベストセラー、聖書、バイブルは・・・

1500年以上の異なる年月を生きた40人以上の異なる著者によって書かれた66巻の書物が一冊になった本。しかも、その3分の1は預言です。
「聖書はすべて、神の霊感によるもの」(第二テモテ3:16)としか説明できません。
ですから、「主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。」(イザヤ34:16)と宣言されています。
「それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」(第一コリント10:11)
「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」(ローマ15:4)
聖書が本当に神の言葉であるならば、全ての人間は、後で自分が間違っていたと後悔することがない、本当に豊かな人生を見つけるために、聖書を調べて読む必要があります。
聖書とは
- 著者は?
聖書は1500年以上の年月を超えて40人以上の著者たちによって書かれた66巻の書物が一冊になった本です。時代を遥かに超えて生きた別々の人物が、一つの共通したテーマについて一冊の本を書き上げることなど可能でしょうか?「聖書はすべて、神の霊感によるもの」(第二テモテ3:16)としか答えがありません。つまり、時代を超えて異なった人々を用いて、神ご自身が書かれたのです。
聖書の中で、神はこう宣言しています。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。わたしが永遠の民を起こした時から、だれが、わたしのように宣言して、これを告げることができたか。これをわたしの前で並べ立ててみよ。彼らに未来の事、来るべき事を告げさせてみよ。」(イザヤ書44:6, 7) 全ての創造に始まり、人類の初めから終わりまで宣言できるのは、確かに創造主なる神しかいないでしょう。

聖書の著者は神です。聖書が神の言葉である証拠は、ズバリ、「預言」だと言えるでしょう。それは神から預かって人が書き記した言葉です。

聖書を読めば、そこに書かれた預言が人類の歴史を通して過去100%の確率で成就して来たことがわかります。そして、今現在は、聖書の終末預言とそっくりであることがわかります。
カルバリーチャペル、チャック・スミス牧師による著書「最終劇」は、終末を舞台劇の最終幕にたとえて書かれた終末預言の本です。聖書にどのような預言が書かれており、それが過去どのように成就してきたか、そして、今私たちが生きている世界の終わりについて、聖書には何と書かれているのか、自分で確かめてください。
(ファイナルアクト「最終劇」からの抜粋)
私たちはなんとエキサイティングな時代に生きていることでしょう!神は私たちの目前で、国々と最近の世界情勢をお膳立てされているからです。神は、私たちの生きている時代がどのような時であるのかよくわきまえているように願っておられますし、期待しておられます。ですから神は、神のみことばの中に、約束されたイエス・キリストの再臨が近いことを認識する助けとなる数多くのしるしを私たちに与えて下さっています。クリスチャンとして、私たちはこのエキサイティングな時代に生き、この偉大なドラマが幕開けされるのを見る特権を持っています。
- 旧約と新約?
聖書は大きく、旧約と新約に分かれます。古い契約(旧約)と、新しい契約(新約)です。人類の歴史がキリストを境に紀元前(BC=Before Christ*キリストが生まれる前)と紀元後(AD=Anno Domini*ラテン語で主(キリスト)の日)に分かれているように、聖書もイエス・キリスト誕生前の旧約と、イエス・キリスト誕生後の新約に分かれているのです。
旧約では、神の選びの民であるイスラエルに対し、神がモーセを通して律法を与え、律法を守れば祝福され、律法を守らなければ呪われると語られています。また、神がやがて永遠に統治されるメシヤ*を送ってくださると約束しています。新約では、旧約で約束されていたメシヤ*が、イスラエルだけでなく、人類全てを救うために来てくださったことを示しています。(*ヘブル語ではメシヤ、ギリシャ語ではキリスト。いずれも救世主、やがて来るべき油注がれた王の王という意味の言葉です。)そして、律法によってではなく、イエスの十字架での死と復活を信じる信仰による義(神の前に正しいとされる)、つまり神の恵みによる新しい契約が書かれています。そして、罪と悪に満ちたサタンの支配する今の世を滅ぼし、愛と義によってメシヤ、キリストと呼ばれるイエスが支配される永遠の天国で生きる永遠のいのちを約束しています。

旧約39巻と新約29巻が1つのテーマでまとまって1冊の本となっているのが聖書です。
- テーマは?

旧約も新約も、中心となっているテーマは、神が送ってくださる救世主(メシヤ、キリスト)、つまりイエスです。旧約で、預言者イザヤを通し、神はこう約束されました。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は、不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる。」(イザヤ書9:6)つまり、救い主は、人間として生まれる神ご自身であると言うのです。新約で、ルカはこう書き記しました。「イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」(ルカの福音書24:27)また、イエスはこう宣言しました。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」(ヨハネの福音書5:39)
つまり、聖書のテーマは一貫して救い主なる神、イエス・キリストです。
そして、「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」(第二テモテの手紙3:15)
聖書を学ぶ
- 聖書全巻とその執筆年代、旧約聖書および新約聖書の概要
(下の「聖書概要」をクリックするとPDFファイルで見れるようになっています。よろしければご自由にダウンロードしてください。)
- 聖書のテーマ=イエス・キリストについて
「イエス」とはヘブライ語で「神は救い」と言う名前です。「キリスト」とはヘブライ語「メシア」のギリシャ語で、よく救世主と訳されますが、厳密には「油注がれた王」であり、名前ではなくタイトルです。つまり、イエス・キリストとは、全人類の創造主であり救い主なる神であり、やがてくる世において永遠に王としてあがめれる神ご自身です。聖書を学べば、イエス・キリストは神であることがよくわかります。以下、旧約聖書の創世記1章と新約聖書のヨハネの福音書1章から。
はじめに神が天と地を創造された。地は茫漠として何もなく、闇が大水面の上にあり、神の霊がその水の上を動いていた。 神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。・・・神は仰られた。すると、そのようになった。(創世記1章からの引用)
初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。・・・ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。・・・いまだかつで神を見た人はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(ヨハネの福音書1章からの引用)
つまり、「ことば」によって全てを造られた創造主なる神が、人間にわかるように人間の肉体をとってこの地上に現れてくださった、それがイエス・キリストだと言っているのです。
イエス・キリストは、神である
イエス・キリストは、ご自身が神であると何度も宣言されました。イエス以外で自分が神であると言う人は、おかしなカルト宗教の教祖か狂人だと言えますが、イエスはご自身が神である証拠を示されました。絶対に疑いようもない神である証拠が示されたなら、イエスを神として礼拝する以外の選択肢はありません。そして聖書は、イエス・キリストを信じるか信じないかで永遠の行き先が決まると言っています。そうであれば、全ての人間が真剣に受け止める必要があります。

イエス・キリストがご自身が神であると宣言されたこと、そしてご自身が神である証拠を明らかに示されたこと、イエス・キリストを信じるか信じないかで永遠の行き先が決まることが、カルバリーチャペル、チャック・スミス牧師による著書「キリストの宣言」で読めます。
(キリストの宣言からの抜粋)
死は人間存在の終わりではありません。聖書には、人には一度死ぬことと、死後に裁きに会うことが定められている、と書かれています。その裁きの後、全ての人は永遠に天国に行くか、永遠に地獄に行くかのどちらかです。あなたの永遠の行き先は、あなたがイエス・キリストの宣言を信じるか信じないかによって決まるのです。
- 聖書の言葉の定義
- 聖書の言葉の定義(1)聖書が語る「罪/罪人」とは?
罪=的外れ
聖書の「罪」とは、ギリシャ語で「ハマティア=的外れ」と言う意味です。アーチェリーで的の真ん中の丸に命中しなければ「的外れ」ということです。ですから、聖書が「すべての人は、罪を犯して、神の栄光を受けることができない」(ローマ人への手紙3章23節)と言うとき、それは、すべての人間が神の完全な律法から的を外していて、神の前で完璧な人はいないと言う意味です。人間は意識していてもいなくても、生まれつき神に背き、神に対して罪を犯しています。本物の神を神とせずに生きること自体が、神に対する人間の罪だからです。初めの人アダムとエバが、「あなたがたが神のようになって善悪を知る」(創世記3章5節)という誘惑に負けたので、全人類は「それぞれが自分の目に良いと見えることを行い」(レビ記21章25節)、「それぞれ自分勝手な道に向かって行った」(イザヤ書53章6節)のです。ですから、聖書的に言えば、神の前に善人はいません。すべての人が神の前には罪人です。

全人類は生まれつき神の前に「罪」を犯し、神に裁かれたら「罪人」です。
- 聖書の言葉の定義(2)「義/義と認められる」とは?

義=罪がない、正しい、無罪判決
聖書で「義」とは、法律用語で「無罪」と言うことです。ですから、「義と認められる」とは、罪がないと認められる、無罪判決とされると言うことです。神の前に義と認められるとは、「全く罪を犯したことがない正しい人、完全に無罪潔白な人である」と神に認められると言うことです。「人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義(無罪)と認められず」(ローマ3:20)、「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、値なしに義と認められる」(ローマ3:24)のです。「神は罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです」(第二コリント人5:21)つまり、神の前に無罪とされるには、偉大なる人質交換があったのです。罪のない神の御子イエスが罪の贖いとして身代わりに死んでくださったので、それを信じて受け入れる者は、イエスが罪のない人生を生きたように見なされ無罪判決を受けると言う、驚くような神の恵みです。この神の義は、イエスを自分の救い主として信じて受け入れる「すべての人に与えられる」(ローマ3:22)のです。
たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。(イザヤ書1章18節)
- 聖書の言葉の定義(3)聖書が語る「死/永遠の死」とは?
聖書の死=霊的な死=神との断絶
人の死の判定基準に関する法律では、「呼吸と血液循環が完全に停止し、脳の全機能が完全に停止し、蘇生不能な状態に陥り、且つその状態が継続したとき、人は死亡したものとみなされる。呼吸と血液循環が人工的に維持されている場合、脳検査の結果、脳の機能が完全に停止し、蘇生の見込みがなくなったことが完全に確認されたとき、人は死亡したものとみなされる」とあります。つまり、身体の機能は人工的に動かされていても、脳の全機能が停止した時、その人の魂が身体を離れたので、「その人は死んだ」と言うことです。
しかし、聖書は、神は人間を永遠の存在として造られたと語っています。ですから、人の魂が身体から離れても、人の魂は永遠に生き続けます。魂とは、その人が物事をどのように考え、どのように感じ、どのように対処するのかと言う、まさにその人の人格そのものです。
では、聖書が語る「死」とは、どう言う意味でしょうか。それは、霊的な死であり、霊である神との断絶を意味します。ですから、イエスは、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません(天国に行けない)」(ヨハネ3:3)と言われたのです。イエスは続けて「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」(ヨハネ3:6)と言われました。つまり、人はこの世でどんなに健康な身体で生きていても、それは肉体が生きているだけに過ぎず、その人が神の霊と交わって生きていないなら、霊的には死んでいると言うことです。そして、肉体が死んだ時、肉体を離れた魂は、神との完全な交わりの中で生き続ける(永遠のいのち)か、それとも神から完全に断絶された場所で生き続ける(永遠の死)か、その二者択一しかありません。もし、人がこの地上で神を無視し、神を拒絶し、神と関わりを持ちたくないと言うならば、その人はこの地上の人生を終えた後も、神から完全に断絶された地獄で生き続けます。それが、聖書が語る永遠の死です。
肉体的にこの世に生まれ、新しく霊によって生まれた人は、肉体的には死にますが、霊的にはこの地上の人生が終わっても、神との交わりの中で永遠に生き続けます。それがイエスが言われた「わたしを信じる者は死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)と言う意味です。逆に、肉体的にこの世に生まれ、新しく霊によって生まれなかった人は、肉体的な死の後で、神の裁きにより、霊的な死を味わいます。
それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。(黙示録20:14)
- 聖書の言葉の定義(4)聖書が語る「神の裁き」とは?
神の裁き(1)全人類が逃れることができない最終的な死後の裁き

この地上で罪を犯せば、この地上の法律に従って裁かれます。残念ながら、罪を犯した結果、その罪に相当する正しい完全な裁きが行われている時もあれば、そうでない時もあります。人間は神ではないので全てを知り尽くすことができず、完璧に正しくはないからです。そのような限界のある不完全な裁きに、人は理不尽さや虚しさを覚えます。
でも、この世で裁かれるような罪を犯した人も犯していない人も、全ての人は皆、100%の確率で死にます。聖書には、「人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)と書かれています。死後の神の裁きを逃れることは誰にもできず、神は決して罪を妥協されません。神の裁きの下では、神の完全な律法によって神の完璧な基準で裁かれます。神は人間ではなく、全てを知ることができるので、神の裁きは完全、完璧であり、「真実な正しい裁きです。」(黙示録16:7)
造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。(ヘブル4:13)
神の裁き(2)裁きの基準
聖書は、「すべての人が罪を犯したので神の栄誉を受けることができない」(ローマ3:23)と言っています。つまり、人類史を通し、すべての人間が神に対して罪を犯したと言っているのです。神の前に立った時、神に対し、「私は生まれてから死ぬまで無罪潔白、完全な人間でした」と言える人などいないということです。神の裁きの基準は人間の基準とは違います。聖書のことばから神の基準を見てみましょう。
「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。」(マタイ5:22)
怒って人をことばで傷つけ殺したことがあるかもしれません。怒り続けて赦さなかったかもしれません。神の前に、それは罪です。
「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:28)
行動に移さなくても、心や思いの中で汚いことを思ったり考えたりしたかもしれません。それも神の前には罪です。
「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」(レビ19;2)

「わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」(マタイ12:36、37)
一生涯ことばで失敗しない人などいるでしょうか?
つまり、神の裁きによれば、完璧でなければ有罪判決です。
神の裁き(3)最終的に、何に対する裁きか?=人類史上、全人類が共通して犯した神への反抗の罪
人類史で初めの人間が神に対して犯した罪とは何でしょうか?
創世記1、2章には、神が初めの人アダムとエバをご自身の似姿に造られ、エデンの園に置き、親子のように愛の関係を持って交わっていたことが書かれています。神が造られた美しい環境で、人間は神とのすばらしい愛の関係を持って生きていたのです。
神が初めの人アダムとエバに命じられたのは、たった一つのことでした。
「神である主は人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』」(創世記2:16、17)

ところで、神が造られたものには、天と地と、人間を含む被造物に加え、天使とか御使いと呼ばれる霊的存在もありました。神に反抗した御使いはサタンとか悪魔と呼ばれる存在となり、人間も神に反抗するようにそそのかしました。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:4、5)
さて、ここで、最初の人アダムとエバは、神が言ったことを信じて神に従うか、それとも、サタンが言ったことを信じて神に反抗するのか、選択があったのです。アダムとエバは完璧な環境で神と愛のうちに歩み、「善」だけを知っており、「悪」など知らず、知る必要もなかったのです。ところが、「善」と「悪」を知り、「神のようになる」というのは魅力的でした。そして、残念ながら、初めの人アダムとエバは、「取って食べてはならない」と言われた善悪の知識の木から取って食べ、神に反抗することを選び取ってしまったのです。
「こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった」(ローマ5:12)のです。
それで、すべての人は神から離れ、神に反抗し、自分勝手な神概念、自分勝手な善悪の価値観を作り、「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行って」(士師記21:26)います。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った」(イザヤ書53章6節)と書かれている通りです。
本物の神から離れ、無視し、反抗し、自己中心に生きているとは、つまり自分を「神=一番大切なもの、一番としている価値基準」としているのです。これこそが、人類史上、全人類が共通して犯した神への反抗の罪であり、この罪に対して神の裁きが下るのです。どんな罪も赦されますが、最後まで唯一の真の神に反抗する罪だけは赦されません。神は和解を提供してくださいました。その和解とは、私たちの身代わりとなった神の御子イエス・キリストです。だからこそ、この神との唯一の和解方法であるイエス・キリストを受け入れないとは、自分を「神=一番大切なもの、一番としている価値基準」としているということであり、神に反抗している、神を拒絶していることなのです。

そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。(第二テサロニケ1:8、9)

神の裁き(4)裁きの結果
神の裁きによれば、「罪の報酬は死」(ローマ6:23)です。つまり神が初めの人に言った「あなたは必ず死ぬ」ということです。それは、霊的な死であり、霊である神と交れなくなる断絶です。肉体的な死の後の神の裁きで、永遠に神と断絶してしまうこと、それが永遠の死です。
- 聖書の言葉の定義(5)「救い」とは? 何から救われるのか?(義化、聖化、栄化とは?)
(1)救い=神に犯した罪の結果として当然受けるべき刑罰(永遠の死)からの救い=義化
すべての人間は、生まれつき神の裁きで滅ぼされるべき状態でした。以下、聖書に書かれている通りです。
「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ2:1~3)
しかし、自分が神の前に「罪人」であると認め、自己中心から神中心へと「悔い改め」、イエス・キリストを救い主として信じて心に受け入れた者は、神から罪を赦され、まるで無罪潔白の人のように義とみなされて、神の裁きである滅び、永遠の死(神との断絶)を免れます。この「義化」は、信じて受け入れた瞬間に起こります。

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:23)
(2)救い=罪の奴隷状態と、罪の力からの救い=聖化
イエス・キリストを本当に信じて受け入れ、「新しく生まれ変わった(ボーン・アゲインした)」クリスチャンは、内側に神の御霊が住まわれるようになります。そして、「罪に支配されることがなく」(ローマ6:14)、「罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得た(ローマ6:22)ので、今まで気づかなかったこと(自分勝手な思い、プライド、不潔な冗談、人を傷つけることば、怒り続けて赦さない心、など)が聖霊によって罪と知らされます。神を愛し、神を喜ばせたいと願うので、今まで知らないで行っていたそのような罪を犯したくないと願い、祈るので、聖霊の力によって、内側から少しずつ変えられていきます。これがクリスチャンの「聖化」で、信じた瞬間からこの地上の人生が終わるまでの過程で継続していきます。
愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。(第一ヨハネ3:2、3)
(3)救い=罪の存在からの救い=栄化

イエス・キリストを本当に信じて受け入れ、「新しく生まれ変わった(ボーン・アゲインした)」クリスチャンは、「神の子ども」(第一ヨハネ3:2)として「神の御性質にあずかる者」(第二ペテロ1:4)となり、最終的に完成させられます。この「栄化」は、この地上での人生を終え、天にあげられた時に起こります。
そして、イエス・キリストの贖いによって救われ、義化、聖化、栄化したすべての人は、やがてやってくる罪の存在しない永遠の神の御国、新しい天と地で生きる永遠のいのちの希望が約束されています。
しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。(第二ペテロ3:13)
あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。(ユダ24、25)
- 聖書の言葉の定義(6)「悔い改め」とは?

悔い改めとは、「心と思いを変えて方向転換する」ことです。
人は創造主なる神に反抗し、神のみこころ、神の基準、神の価値観から外れ、遠く離れて生きています。神と愛の関係にないので、神を中心に神を喜ばせるのではなく、自分を中心とし、自分勝手な価値観と基準で自分が思うように自分を喜ばせて生きています。
それこそが神に対する罪であると認めること、自分が間違っていたと認めること、そして、創造主なる神に立ち返り、自分を人生の主とした自己中心の人生から、神を自分の人生の主として従って生きていく決心をすること、それが「心と思いを変えて方向転換する」こと、つまり悔い改めです。
「主のことば ー 心のすべてをもって、・・・わたしのもとに帰れ。・・・あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。」(ヨエル2:12、13)
主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか。主はあなたに何を求めておられるのか。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ6:8)
- 聖書の言葉の定義(7)新しく生まれる(ボーン・アゲイン)とは?
新しく生まれる(ボーン・アゲインする)ことは、神の御国を受け継ぐ、つまり永遠のいのちに不可欠です。神は唯一であり、神と人との仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスである(第一ペテロ2:5)と知ること、十字架で死んで蘇られた神の御子イエスは、やがて来る神の御国で王となられる神ご自身であると「頭で信じる」だけでは不十分です。なぜなら、「あなたがたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています」(ヤコブ2:19)と書かれており、当然、悪霊どもは救われていません。
イエスは人々から立派で良い人と思われていた宗教家でありパリサイ人であり指導者であるニコデモに言われました。
「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。・・・まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3:3、5~8)
新しく生まれる(ボーン・アゲインする)とは、死んでいた霊が生きることです。神の御霊によって生まれることです。それは、悔い改めて、生まれつきの自己中心な古い自分に死んで、イエスを「私の神、私の主」(ヨハネ20:28)と心に受け入れ、神として礼拝し、主として従う時に起こります。その時に、神の御霊(聖霊)が自分の内側に入ってきて、神の御霊によって生まれる(ボーン・アゲインする)のです。
人が新しく生まれた(ボーン・アゲインした)ら、神の御国を受け継ぐ、永遠のいのちを持っていると確信できます。なぜなら、神の御霊(聖霊)が自分の中に住んでおられるからです。

この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。(エペソ1:13、14)
- 聖書が語る福音とは?
- 聖書が語る福音とは?(1)言葉の意味

新約聖書の最初の4つは、4人の異なる著者によって書かれましたが、どれも「福音書」です。つまり、「福音」が書かれているわけですが、「福音」とは何でしょうか。「福音」とは、「良い知らせ」です。ちなみに、「福音」とは、英語では”gospel”(ゴスペル)です。日本では「ゴスペル」と聞くと、「ゴスペル・ミュージック」として音楽のジャンルと思われますが、本当の意味で「ゴスペル」とは「福音」です。そして、”gospel”(ゴスペル)とは、”Good News”(良い知らせ)です。
福音=ゴスペル=良い知らせ
- 聖書が語る福音とは?(2)その内容
では、何が「良い知らせ」なのでしょうか。クリスマスに語られる聖書箇所、ルカの福音書2章8〜11節にはこうあります。
さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
つまり、一人の特別な赤ちゃんの誕生、メシア、キリストと呼ばれる私たちの救い主であり王なる神の御子の誕生が「すばらしい喜び」の知らせであり、「良い知らせ」だと言うことです。でも、なぜこれが「すばらしい喜び」であり、「良い知らせ」なのでしょうか?
聖書のもう1箇所から、さらに福音を見てみましょう。
兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。・・・私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、・・・キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、・・・です。(第一コリント15:1〜4)
つまり、ここでは、メシア、キリストと呼ばれる私たちの救い主であり王なる神の御子は、この地上に誕生されたが、私たちの罪のために死なれ、三日後によみがえられた、これが「福音=良い知らせ」だと言うのです。
救い主なるキリストが生まれ、私たちの罪のために死なれ、三日目によみがえられた、これが福音=良い知らせです。
でも、これが「良い知らせ」だとわかるためには、まず、悪い知らせを聞く必要があります。
- 聖書が語る福音とは?(3)良い知らせの前に、悪い知らせ
自分は全く間違いを犯したことがなく、良心の咎めを感じたことも全く無く、道徳的に完璧な人間だと言える人はいるでしょうか? 神のことばである聖書が何と言っているか見てみましょう。
愚か者は心の中で、「神はいない」と言う。彼らは腐っていて、忌まわしい事を行う。善を行う者はいない。主は天から人の子らを見下ろされた。悟る者、神を求める者がいるかどうかと。 すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。誰一人いない。(詩篇14:1〜3)
すべての人は、罪を犯して、神の栄光を受けることができない。(ローマ人への手紙3章23節)
つまり、神の前に、「良い人」はいないと言うことです。自分を善人と思っている人に対し、聖書に書かれた神の基準を見てみましょう。
まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。・・・『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。(マタイ5:20〜22、27〜28)
律法学者やパリサイ人は宗教熱心で、「人を殺してはいけない。姦淫(結婚した夫婦間以外の性的行為)してはならない」など、外側の行為から見える神の律法は完璧に守っており、人々からも道徳的にはすばらしく「良い人」と見られていたわけです。でも、神の基準では違います。もし人に腹を立てて、「こんな人死んでしまえ」なんて思ったら、それは人を殺したことと同じだと言うのです。もし、人を見下して「能なし、ばか者、こんな人生きてる価値ない」と思うなら、その人は人殺しをしたのだと言うのです。また、結婚した夫婦間以外の性的行為は神の前に汚らわしく忌み嫌うべき罪であり、それは、行動に移さず思いの中だけであったとしても同じ罪に定められると言うことです。これが人の心の中を見られる神の基準です。この神の基準がわかれば、神の前に「良い人」などいないとわかるでしょう。ですから、聖書は、道徳的に善人だと思っている人、人間の基準の正義などは、「汚れた者」のようであり、「不潔な衣」のようだと言っているのです。(イザヤ書64章6節)神の律法は完璧であり、神は人の心の奥に隠れた動機までも探られるからです。

神を信じていようがいまいが、すべての人間は100%の確率で死にます。聖書には、「人間には一度死ぬことと死後に裁きに会うことが定まっている」(ヘブル9:27)と書かれています。この世の法規制の下では、この世の法律によって裁かれます。神の裁きの下では、神の律法によって神の基準で裁かれます。人間を創造され、人間を最終的に裁かれる全知全能の神の前に立った時、どう弁明するか、考えてみてください。「私は一生涯良い人で、完璧でした」と言えますか?それとも、「私はこんな間違いをしましたが、正当な理由があったんです」なんて言い訳できると思いますか? 「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです」(ヘブル4:13)聖書に書かれているように、完璧なる神の基準で裁かれたら、すべての人は神によって有罪判決を受けるでしょう。「すべての人は、罪を犯して、神の栄光を受けることができず」(ローマ3:23)、「罪の報酬は死です。」(ローマ6:23)
不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。(ローマ1:18)
私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠されたことをさばかれる日に、行われるのです。(ローマ2:16)
なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。・・・というのは、律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」(ガラテヤ2:16、3:10)
そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。(第二テサロニケ1:8、9)
また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物が開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(黙示録20:11〜15)
死んだ後で、心の奥まですべて見ることのできる全知全能の神の前に立った時、神の完璧な基準で裁かれるなら、人間は皆罪人として有罪判決を受け、罪の刑罰である霊的な死、つまり永遠に神から断絶され、永遠に地獄で苦しみながら生き続けると、聖書には書かれているのです。これがすべての人が知るべき「悪い知らせ」です。
- 聖書が語る福音とは?(4)悪い知らせを理解したら、良い知らせ
この悪い知らせがわかって、初めて「救い主」の必要に気づくので、「救い主」が来られた知らせが「すばらしい喜び」であり、「良い知らせ」だとわかります。では、「私たちの罪のために死なれ、三日目に蘇られた」ことは、どのような意味があるのでしょうか?
誰かがあなたに損害を与えたとしたら、その人は損害賠償しなくてはなりません。誰かがあなたに悪いことをしたとしたら、あなただけがその人を赦すことができます。では、人間が神に対して罪を犯したら、どのようにして罪を償えるでしょうか? また、どのようにして神から赦してもらえるでしょうか? 人間の罪の賠償責任を負うことができるのは神だけ、人間を赦すことができるのも、神だけです。
人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。(マタイ16:26)
兄弟さえも人は買い戻すことができない。自分の身代金を神に払うことはできない。たましいの贖いの代価は高く、永久にあきらめなくてはならない。(詩篇49:7、8)
なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。(レビ記17:11)
それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。(ヘブル9:22)

人間が神に対して犯した罪の結果は永遠の死です。つまり、死んだ後で永遠に神から離れた地獄で苦しんで生き続けるのです。神から罪を赦してもらい、永遠のいのちを得るためには、神は「命=血」を要求しています。これが、先に見た、「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られた」(第一コリント15:3)という「福音=良い知らせ」です。つまり、人間の側から神に罪を賠償し、罪を赦してもらうことは不可能なので、神ご自身が人間の身代わりに十字架上で血を流して死んでくださったと言うことです。それだけでなく、罪の報酬である死に打ち勝ち、「聖書の示すとおりに、三日目によみがえられた」(第一コリント15:4)のです。それは、自分が神の前に罪人であり、イエスの十字架での死が自分の神に対する罪の報酬の死の身代わりであったと認め、イエスを自分の救い主なる神として受け入れるなら、イエスが蘇ったように自分も霊にあって生まれ変わり、神と和解でき、神と共に永遠に生きられるという意味です。これが、聖書が語る福音=良い知らせなのです。
イエス・キリストが私たちの罪の身代わりに有罪判決を受けて十字架で死んでくださったので、信じる者は罪が転嫁され、神に赦され、永遠の刑罰から救われます。イエス・キリストが死に打ち勝ち、死からよみがえってくださったので、イエスを受け入れて従う決心をする者は霊によって新しく生まれ変わり、神と共に永遠に生きることができます。
- 聖書が語る神は唯一だけど三位一体
聖書の神は唯一です。でも、三位一体で3つの位格があります。
父なる神、御子なる神、聖霊なる神です。
たくさんの人たちがいろいろな方法で説明しています。一つの物質が固体、液体、気体と3つの異なる「三態」に変化しても、同じ一つの物質であるとか、卵には殻と白味と黄味があるけど、一つの卵とか。もしくは、Aさんは親にとっては息子だけど、妻にとっては夫であり、子供にとっては父親であり、異なる役割を持っているけど一人の人物であるとか、などなど。
私の牧師であるチャック・スミス牧師は、創造主なる神に造られた存在である有限の人間の頭脳と言葉で、創造主なる神の無限の存在を完全に理解して説明しようと試みることにこそ限界がある、ただ、それぞれに役割があると言っていました。

聖霊は、私たちにイエス・キリストが神であることを理解させ、イエス・キリストを見上げるようにさせます。
イエス・キリストは、地上におられたとき、いつも「父」のことばを語り、「父」のみこころを行い、「父」のわざを行っていると語られました。イエス・キリストは、私たちのフォーカスを天の父なる神に向けさせます。
そうして私たちは、天の父なる神に心を向けた時、御子なるイエス・キリスト、聖霊なる神を送ってくださった神をほめたたえ、同時に、御子なるイエス・キリストがしてくださったこと、聖霊が成し遂げてくださることに感謝をささげるのです。
聖書のみことばを見てみましょう。つづく・・・
